ウミネコラム

「ウミネコアーキ」が、建築について日々感じていることやら読本のまとめやらを色々と書き連ねるところ。

絶対と関係と野生の間

3つの展覧会を駆け足でハシゴしての雑感。

 

 

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「紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970s―1990s」
@国立近現代建築資料館

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毎度お馴染み毛綱毅曠さんのドローイングが異彩を放ち過ぎてあれですが、個人的には同時代の建築家の影響が伺える藤井博已さん(アーキズーム/ノン・ストップ・シティ)や鈴木了二さん(ダニエル・リベスキンド/マイクロメガス)が興味深い。
建築から自立した純粋な表現としての建築ドローイングは、実際の建築以上にコンセプトを雄弁に語っている。CADによる建築ドローイングの衰退は勿論あるのだろうけど、現代だとそのある種<絶対的>な空間性・建築性に対する興味が薄れているようにも感じる。
95年以後の「関係性の美学」から追放されたかに見える純粋な建築ドローイングだけども、やはりその純粋で普遍的な表現にしか出せない圧倒的な美しさというものも存在するわけで、後世にまで時間を超越して唯一残り得るドローイングの<絶対的>な魅力を再考する必要があるのでしょう。

 

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「en[縁]:アート・オブ・ネクサス 第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館帰国展」
TOTOギャラリー・間

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縁=つながり=関係性がテーマということで、様々な関係性の表現による建築たちの展示。
住まい方や地域経済、構法、素材、コンテクスト等々…それぞれが独自の物語を編集することでその魅力を表現している。
極めてドメスティックな課題かと思いきや、映像で猪熊さんが触れていたように、グローバルな関心事としても有効であったり、能作さんが触れていたように当たり前にやっていることが評価される驚きだったりと、世界的には<関係的>な空間・建築に対する価値がまだまだありそう。

 

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「野生展:飼いならされない感覚と思考」
@21_21 DESIGN SIGHT

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本能的な身体的・美的・知覚的感覚を仮に<野生性>とでも言うならば、現代の人間はそれがとても失われてしまっているのかもしれない。
それでもまだ飼いならされていない<野生性>があり、そこに訴えかけたり、そこから発現するものに人々は魅了される。
中沢新一さんがディレクターということもあって、文化人類学でスピリチュアルな部分も多分にあるけれども、例えば石や植物といった自然物が放つ異様な神聖さみたいなものはあって、直感的に美しいと思う感覚は大事。

 

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「建築ドローイング展」では<絶対的空間>の力が問われていた。そこには現実から自立した普遍的で純粋な建築表現が為されている。
一方で「アート・オブ・ネクサス展」では<関係的空間>が中心に位置付けられており、付記されるのは可愛らしいドローイングや人々が和気あいあいとした写真だったりする。
また「野生展」ではモノそのものの力が重視されていて、フェティシズム(=物神崇拝)的である。
<関係的空間>において、そこで用いられている素材を標本的にプレゼンテーションするのが流行しているが、「野生展」と比べるとモノそのものが特異というわけではなくて、あくまで建築という総体を表現するための手段であるような印象を受ける。なので「野生展」での南方熊楠の<縁起>と<関係的空間>で援用される<アクター・ネットワーク論>は似ているようで実は違うんじゃないかなと感じた次第。
それに対して、建築の絶対性を追求しているのが「建築ドローイング展」の諸建築で、当時の建築ドローイングは<野生性>に溢れているのではないか。
大事なのは、<絶対的空間>と<関係的空間>は相反するものではないということ。

都市的人間<ホモ・ウルベ>はサプライチェーンに飲み込まれる

最近よく考えている都市/集落とナリワイ、そこから見えてくる接続性/切断性について。

 

■ 新しいこと=古いこと?

『建築ジャーナル2018年2月号』の情報ポストにて、「「集落」という実験場、やいか」という記事を書かせていただいた。

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『建築ジャーナル2018年2月号』

 

詳しくは内容を拝読していただければと思うが、ざっくり言えば、集落では今なお当たり前のように行われている、例えば家を建てたり作物を育てたりするようなナリワイ(=生活と仕事を一体化させること)が、昨今の都市の人間には目新しく映り、それがスキルとして、延いては生存戦略として有効な手段の一つではないかということを示唆している。

ちなみに、このナリワイについては伊藤洋志著『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』を参照している。

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伊藤洋志著『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』

 

改めて、ここでいう<都市>と<集落>の定義を整理しておくと、<都市>とは「外部的に生存物資・技術を交換することで成立する拠点」を意味する。それに対して、<集落>とは「内部的に生存物資・技術の多くを自給自足的に完結させている拠点」を意味している。詳細は西沢大良著『新建築2012年5月号:現代都市のための9か条(連載 第二回)』を参照されたい。

つまり、集落では外部に依存できないがゆえに生活力を高める必要があり、自然にナリワイ的な生活が生まれる土壌があるということである。

 

ところで、『建築ジャーナル2018年2月号』の主題は「小さな家」で、タイニーハウスや小屋暮らし等の事例が紙面を飾る。もちろん、「小さな家」ということで最小限・ミニマルな家や暮らし方というのがあるだろうが、その背後で彼らが標榜することの一つに、「家」を自身でハンドリングしたいという意志があるように思う。高いお金を払って余所余所しく付き合うのではなく、自力で作り愛着を持って接することができる家。この潮流は90年代以降の欧米から来ているようだ。

一方で、元々日本の農家の人々は自力で建築するスキルをもっており(今でもビニールハウスなどは当たり前のように建てている)、広く生活する能力を培ってきた。

 

ここで松岡正剛、ドミニク・チェン著『謎床:思考が発酵する編集術』での言及を見てみよう。

翻ってみると、西洋の抱えている構造的な限界の先にあるアジア、あるいは日本という風土に僕たちはすでに生活している。その一方でIT業界でいえば、Googleが禅を取り入れたということが最先端の情報として入ってくる。あるいはマインドフルネスという語についてアメリカの医学界で用語定義され、よし今度はマインドフルネスを最大化するシステムをつくろうという話になっていて、日本はかえってそこに後れを取っている感じがあるんです。最初から身近にあるのに、欧米から流れてくることによって目新しく感じて取り入れようとしている。(p.153)

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松岡正剛、ドミニク・チェン著『謎床:思考が発酵する編集術』

 

つまり、西洋の構造的限界の先にアジアや日本の生活があることに気付いておらず、西洋の動向を逆照射する形で日本の生活に気付くようになる現状がある。それはタイニーハウスやDIY系の潮流についても同様のことが当てはまる傾向にある。もっと言えば、ミニマルな思想は鴨長明の『方丈記』や侘び寂びに通じるものがある。

 

どうやら元々あったものを目新しく取り入れるというアベコベな形になってはいないだろうか。集落の住民が当たり前のように行う<百姓的>(百姓とは、文字通り100の仕事を持つという意味)な生活の仕方が、現代では特別なことのように表現されていることに対して違和感がある。

 

 

 

■忘却する近代

しかしながら、恐らくこれは近代社会が意図的に忘却してきたことだと思われる。だから彼らが悪いというわけではないし、その行い自体は評価されるべきものである。

少なくとも近代以前の歴史的な事象が大事で、それを再考するタイミングが来ているのだと思う。特に日本では第二次世界大戦前後の転換は大きいと考えられる。

 

我々は想像以上に沢山のスキルを失っているのではないだろうか。

 

自力で賄うより外注した方が効率的・合理的であるという意思のもとに。

そういう価値意識はある側面では非常に妥当性がある一方で、例えば災害時・非常時などのように供給が断たれた場合に、自給できるものが殆ど残らなくなるという危険性を孕んでいる。これは生存戦略としては決して合理的ではない。

それはどういうことだろうか。前述の『ナリワイをつくる』では次のような興味深い話がある。

このように、世間で常識と思われているリスクヘッジは、一つ階層を上がれば全然リスクヘッジになっていなかったりする。結局、真のリスクヘッジとは、常日頃の行いでなされるものだと思う。ここまでいけば安心、というような地位はほとんどないわけで、そのようなものを期待しない方がむしろリスクがう少ない状態を保てるとも言える。(p.200-201)

 

つまり、個人レベルでの接続性と都市のインフラとしての接続性は大きく異なっている。なるべく多数の供給網を接続するというのは、リテラルな都市では非常に重要な戦略である。たとえば、パラグ・カンナ著『「接続性」の地政学(上):グローバリズムの先にある世界』で述べられているように、

二一世紀に人間の生活の基本となるのは主権国家や国境線ではなく、サプライチェーンと接続性だろう。(p.49)

従来、戦略的重要性は領土の広さと軍事力で測られてきたが、今日の力の大きさは接続性の範囲においてどれだけの影響をおよぼせるかに左右される。国家の重要度を決定する最大の要因は位置や人口ではなく、資源、資本、データ、有能な人材といった貴重な資産の流れとの物理的、経済的およびデジタルなつながりだ。  (p.79)

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パラグ・カンナ著『「接続性」の地政学(上):グローバリズムの先にある世界』

 

実際の都市においては、かつてなく接続性が優位性を示していると言えよう。一方で、その都市の住民においては、それをそのまま敷衍して説明することは出来ないと考えるのが妥当のように思う。

 

 

■都市化する人間<ホモ・ウルベ homo urbe>たち

自己の能力の外部化を促進することは、自己をサプライチェーンのターミナルに置くことであり、延いては<自己の都市化>を推し進めることへ繋がる。

この<都市化する人間>を仮に<ホモ・ウルベ homo urbe>(=都市的人間)と名付けてみよう。

 

それはつまり、できるかぎり生存物資・技術を外部と交換することで成立する人間である。出来ないこと、自分で行う必要がないことはなるべく外へ出していく、そしてそこで生まれた余剰の時間を有効活用する。その人の接続性が価値となる世界。

 その対極にあるのが、<自己の集落化>と言える。それはつまり、できるかぎり自力で生存物資・技術を自給自足的に完結する人間である。なんでもできる生活力の高い人間と言えよう。

 この自己の都市化/集落化は、自己の接続性/切断性とも換言できる。

 

さて、現代はかつてないほどにこの<ホモ・ウルベ>に溢れているのではないだろうか。

自己を外部と接続することで生存活動を維持する人間。

例えばコンビニで食事を買ったり、ファストファッションブランドの服を買ったり、カフェでコーヒーを飲んだり……これらはサプライチェーンと接続性なしには成立しない。都市の人間は都市に溶融してしまった。

 

この流れは現代を包み込んでいる新自由主義経済が終焉を迎えるまで止まることはないだろう。

重要なのは、どこで生存戦略を思考するか、である。

 

 

■有限性の彼方へ

<ホモ・ウルベ>にとって想定される致命的な問題点の一つとして、「接続しないといけない」と「錯覚」していることが挙げられる。

接続性とは需要と供給によって成立するものであり、そのバランスが肝要である。大型船から輸入するためには巨大な港が必要なのと同じように、多大な接続性を受け入れるにはそれ相応のスペックが問われる。

 

<ホモ・ウルベ>にとって、接続性は無限大である。

しかし、人間のキャパシティは限られている。モノもコトも溢れるこの世界の中で、過剰接続となるのは不可避である。

「小さな家」のミニマリストたちは、この接続過剰から逃れたかったのかもしれない。

 

恐らく<ホモ・ウルベ>の多くを支えるのは金銭的資本であるが、決して反資本主義を標榜しているわけではない。現代に生きるうえで接続することのメリットは計り知れないし、時代退行は避けられるべきである。

 

重要なのは「接続をいかに切断するか」である。

 

そのための極めて重要な考え方として、千葉雅也著『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』の中の次の文章を提示したい。

もっと動けばもっと良くなると、ひとはしばしば思いがちである。ひとは動きすぎになり、多くのことに関係しすぎて身動きがとれなくなる。創造的になるには、「すぎない」程に動くのでなければならない。動きすぎの手前に留まること。そのためには、自分が他者から部分的に切り離されてしまうに任せるのである。自分の有限性のゆえに、様々に偶々のタイミングで。(p.52)

無限な接続過剰から、部分的な無関係へ、すなわち、有限な接続と切断へ。(p.231)

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千葉雅也著『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』

都市においては、繋がることが至上命題とされているが、<ホモ・ウルベ>にとってそれは諸刃の剣ともなる。

それを超克するためには、部分的に切断すること、<集落化>することが重要なのではないだろうか。

 

なぜならば、東浩紀著『ゲンロン0:観光客の哲学』で著者が述べるように、

人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。言い換えれば、公共性などだれももちたくないのだが、にもかかわらず公共性をもつ。ぼくには、この逆説は、すべての人類学の根底にあるべき、決定的に重要な認識のように思われる(p.64)

 なのだろうから。

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東浩紀著『ゲンロン0:観光客の哲学』

 

そもそも都市とは違って、人間は必要性に駆られて関係性を築くのであって、根底では関係したくないのではないか。接続過剰に対する疲弊の背景には、この認識があるように思われる。

<ホモ・ウルベ>は生存戦略の一環として<集落化>するために過去の事象を追ってみるのも悪くはないだろう。

それは決して<都市化>と乖離するものではなく、自己の中で<都市>と<集落>は共存するのである。自己における<都市>と<集落>のハイブリッド化。

 

接続性の有限化が、選択肢を無限遠へ投擲してくれるに違いない。

デザインとアートの境界

普段生活している中でも、<デザイン>という言葉に触れる機会はとても多い。

つまり<デザイン>は世の中で市民権を得ていると言っても差し支えないだろう。

どこで聞いたか忘れてしまったが、<デザイン>とは「整えること」だという定義の仕方がある。ばらばらなものを整理する、ずれているものを修正する、雑然としたものをシンプルにする、といった具合だ。

それに対して、<アート>はよくわからないもの、というニュアンスが広く周知されているように思う(実態がどうかは別として)。

 

建築界においても、<デザイン>という言葉が多用される。

その例は枚挙にいとまがないわけだが、建築を総合芸術として捉える文脈(そもそもArchitecture=建築という訳語自体に芸術としてのニュアンスがある)があり、建築の中には<アート>の成分が包含されていることが必然的なようにも思われる。ヴィトルヴィウスの強・用・美も同様に。

一方で、建築教育あるいは建築批評において感じることとして、建築の設計意図つまりコンセプトを明確に説明できなければならない、という圧力がある。

ここで重要になってくるのが、建築における、あるいは一般化しうる<デザイン>と<アート>の境界線の引き方である。

 

その補助線として、デジタル・デザインの領域からアプローチすると分かりやすくなる。デジタル・デザインのベースにはプログラミングの思考が必要不可欠であるが、この「プログラミングを記述できるか否か」が、大きく関わるのだ。

つまり、ある対象objectの寸法・位置・形状・…を別の表現形式で記述できるかどうか=説明できるかどうか、ということである。

デジタル・デザイン領域においては、ざっくり言って、あらゆる対象objectはパラメーターや命令に分解・変換される。

つまり、<デザイン>とは記述可能なものの総称であり、それをデジタル的に処理したものがデジタル・デザインといって良いだろう。

とすれば、<アート>とは記述不可能なものと言えるのではないだろうか。

 

“デザイン/アート = 記述可能性/記述不可能性”

 

ここにその境界が集約できるように思う。

重要なのは、それらは決して相反するものではなく、共存可能である、ということだ。

例えば、(科学的根拠は実のところ証明されていないようだが)有名な話として論理的思考と感覚的思考は左脳と右脳に対応している、というものがある。もちろん得手不得手はあるが、どちらかしか機能しないはずが無いことは生物学的事実である。

 

しかしながら、建築はすべて説明できなければならない、というある種の強迫観念的なものは、やはり存在する。

 

 

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ノーバート・ウィーナー著『人間機械論』、リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子

例えば、ノーバート・ウィーナーの『人間機械論』やリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』のように、人間あるいは生物を機械とみなして、ある入力に対する論理的な帰結としての応答を出すものとして捉える<機械論的>な価値意識が1960年代からある。

この<機械論的>な価値意識と建築がすべて記述可能である、という価値意識は通底するのではないだろうか。いわば機械論的建築観である。

 

もちろんそのすべてが悪いというわけではない。突き詰めていけば機械論的に説明できることは沢山あるわけなのだから。一方で、それでも説明しきれない=記述不可能なものを大事にしたい、というのが私の立場である。

それは<機械論>の対義語として位置付けれられる<生気論>の重要視である、とも換言できる。

前述の等式に付記すれば、

 

“デザイン/アート = 記述可能性/記述不可能性 = 機械論/生気論”

 

ということになる。

ただし、この境界は時代によって、あるいは日々常に変動しているといって良い。かつては説明できなかったことが今では説明できる、ということが多分にあるからだ。

<デザイン>と<アート>の境界は暫定的なものであり、流動的である。

 

少し脱線すれば、この<アート>の認識と「宗教」の認識は近しいと言える。「宗教」は説明できないことを、超越的な第三者を布置することによって説明しようとする行為に他ならないからだ。

 

大前提として、建築が人間のためのものであるならば、この記述不可能性こそが許容されるべき領域なのではないだろうか? つまり、<アート>としての建築を再考すべきではないかと。

人体においていまだ解明されていない謎は多い。にもかかわらず、人間のための建築がすべて説明できるというのは矛盾してはいないか。

 

もちろん、それは機械論的な記述としての<デザイン>がベースとして成立している前提での話である。そのうえで、<アート>的な記述不可能な領域が付加されることで、より魅力的なものになる可能性がある。消極的な意味ではないことに注意していただきたい。

 

それは装飾的なものなのかもしれないが、現代においてそれは犯罪となるのだろうか?

その言葉にできない不安への忌避は、装飾を追放し得るのか?

果たしてそれは本当に装飾なのだろうか?

 

最終的な結論は急がないが、<デザイン>と<アート>の境界を提示することが、発想のきっかけになるように思う。

より可能性があることとしては、一般の人はその<アート>的な側面に魅力を感じる傾向にあるのではないか、ということ。

かく言う私も、大学に入って建築作品を色々見始めていた時、日本の建築家ではなく、たとえばフランク.O.ゲーリーやD.リベスキンドといった海外のデコンストラクション系の建築にまず興味を惹かれた。分かりやすく圧倒的だったからだ。その趣味は今でも変わらない。 

「アイコニック」な建築を無批判に推奨するわけではないが、否定ばかりされるものでもない。寺社仏閣だって街並みに対して充分なアイコンである。

<アート>的な要素があることとアイコニックであることは無論、等式で結ぶことはできない。あくまで相関関係である。

感覚的であることを受け容れること、これが大事である。

 

このあたりを考えて提案しているのが、<Personality Transcripts>というプロジェクトです。

ついでにそれに関しての過去の議論も。

uminecolumn.hatenablog.jp

 

 

(説明できないことと納得させられないことも本来的にはイコールではなく、そこに信用があるかどうかの方が重要だったりする)

【2017年の読書リストと個人的BEST5】

【2017年の読書リストと個人的BEST5】
今年もあと僅か。習慣化している読書をこれまであまり振り返ったことが無かったので、周りの方々を見習ってやってみる。
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◆BEST5

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内容が響いたものをリストアップ。具体的な理由は直接聞いてください。笑 ちなみに順不同です。
・『コスモポリタニズム』デヴィッド・ハーヴェイ
・『勉強の哲学』千葉雅也著
・『時がつくる建築』加藤耕一著
・『サピエンス全史(上・下)』ユヴァル・ノア・ハラリ著
・『道徳を基礎づける』フランソワ・ジュリアン著

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◆読書リスト
上から下に読んだ順番です。雑誌とか流し読みしたやつは省いてます。あと副題と訳者は省略させていただきます。
載せたもので54冊、書いてないのも入れると60冊ぐらい?6日に1冊ぐらいの計算。もっと読みたいけども来年は減りそうな予感。
・『ビーイング・デジタル』ニコラス・ネグロポンテ
・『複雑系の建築言語』チャールズ・ジェンクス著
・『隠喩としての建築』柄谷行人
・『人工地獄』クレア・ビジョップ著
・『コスモポリタニズム』デヴィッド・ハーヴェイ
・『動きすぎてはいけない』千葉雅也著
・『新・観光立国論』デービッド・アトキンソン
・『「シェア」の思想』門脇耕三著
・『他者の権利』セイラ・ベンハビブ著
・『メディア・モンスター』曲沼美恵著
・『有限性の後で』カンタン・メイヤスー著
・『虚構の「近代」』ブルーノ・ラトゥール著
・『アート・パワー』ボリス・グロイス著
・『食人の形而上学エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ
・『ダーウィンを数学で証明する』グレゴリー・チャイティン
・『勉強の哲学』千葉雅也著
・『不寛容の本質』西田亮介著
・『記号と機械』マウリツィオ・ラッツァラート著
・『木のいのち 木のこころ』西岡常一
・『プラントハンター』西畠清順著
・『社会の新たな哲学』マヌエル・デランダ著
・『中動態の世界』國分功一郎
・『法のデザイン』水野祐著
・『そして、暮らしは共同体になる。』佐々木俊尚
・『部分的つながり』マリリン・ストラザーン著
・『ゲンロン0 観光客の哲学』東浩紀
・『何も共有していない者たちの共同体』アルフォンソ・リンギス著
・『人はみな妄想する』松本卓也
・『ミシェル・セール清水高志
・『エントピア』C.A.ドクシアディス著
・『都市の建築』アルド・ロッシ著
・『モクチンメソッド』連勇太朗・川瀨英嗣著
・『稼ぐまちが地方を変える』木下斉著
・『世界の地方創生』松永安光・徳田光弘編著
・『差分』佐藤雅彦・菅俊一・石川将也著
・『ISOTYPE [アイソタイプ]』オットー・ノイラート
・『アンビエント・ファインダビリティ』Peter Morville著
・『スティル・ライフ池澤夏樹
・『偶然性・アイロニー・連帯』リチャード・ローティ
・『LGBTを読みとく』森山至貴著
・『時がつくる建築』加藤耕一著
・『FASHION∞TEXTILE』宮浦晋哉+糸編
・『サピエンス全史(上)』ユヴァル・ノア・ハラリ著
・『403architecture [dajiba]|建築で思考し、都市でつくる』
・『「接続性」の地政学(上)』パラグ・カンナ著
・『日本の建築家はなぜ世界で愛されるのか』五十嵐太郎
・『サピエンス全史(下)』ユヴァル・ノア・ハラリ著
・『第三空間』エドワード・W.ソジャ著
・『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン
・『ビリー・バッド』ハーマン・メルヴィル
・『人間の居る場所』三浦展
・『四方対象』グレアム・ハーマン著
・『道徳を基礎づける』フランソワ・ジュリアン著
・『メイキング』ティム・インゴルド著

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どうしても読む本の系統が哲学や空間論に偏る傾向にあるので、他ジャンルや価値意識をもっと理解できるようにしていきたいところ。

【感想まとめ】「能作淳平展&ギャラリートーク04」

過去のトークイベントの感想まとめ。

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「能作淳平展&ギャラリートーク04」
@プリズミックギャラリー

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能作淳平さんの展覧会がもうすぐ終わってしまうので観に行こうと思ったらちょうどトークイベントの日だったらしく、ぬるっと拝聴。

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テーマ【「こと」から「もの」へ】
スピーカー:鳥巣智行×大来優×能作淳平

今回は最近注目の「さんごさん」にまつわるお話。
鳥巣さんと大来さんは「さんごさん」プロジェクトの共同発起人であり、電通の精鋭さんたち。そんな彼らが会社ではなく個人的に(副業的に)このプロジェクトを始めたところに面白さがある。

とはいえ、まずは能作さんの最近の建築思考の振り返りから。
これまでの建築界の動向を、「ロマン主義的オブジェ/関係性の美学的オブジェクト」の大きく2パターンとして捉え、第三の可能性として、エリー・デューリングの<プロトタイプ>論を援用した<モノ>自体の価値意識を志向していると言える。分かりやすい作家性でもなく、みんなでワークショップでもない、試作としての「モノ」。
そこから、「ビューロクラシー/デモクラシー」に取り替わる<アドホクラシー>(アルビン=トフラーが1970年代に提唱)を掲げ、状況に応じて変化し対応する空間あるいは建築を目指していると考えられる。

その具体案とも言えるのが「さんごさん」。
仮に自分なりに整理すると、1975年以前を「モノ」至上主義の時代だとすれば、1975~2000年は「コト」消費の時代、そして2000年~は揺り戻して「コト」を内包した「モノ」の時代に移り変わっていると思われる。それは鳥巣さん・大来さんが電通という広告業界の最前線にいるからこそ敏感に体感し得る変化だったのだろう。
「さんごさん」はとにかく良い意味で場当たりに生成変化させていっている部分と、戦略的にメディアを使っていた部分があり、実はトークイベントタイトルの言う通りではなく、「コト」と「モノ」の間の往復運動こそが重要なんだと受け取れる。
<アドホクラシー>は"個性の有る公共空間”を実現する思想であり、その手段としてサンゴ・溶岩・べんがら色といった島の特性を建築にインストールしたり、図書館機能のために「人生の3冊」企画が提案されたりと様々な実験が行われていることに特徴がある。
恐らく、誰でも受け入れるのではなく、「さんごさん」に接続するにはフィルターがあり、それが強度を支持するのであろう。アドホックであることは、接続する/しないを個人に選択させることである。
接続/切断を人によって、その時々によって切り替えられることが必要なんだろう。

「さんごさん」において重要だと思うのが、ここを運営・企画するプレイヤーが主観的な興味関心で突き進んでいること。それが結果的に地域に貢献するようになっている。まずは個人の実験場である、ということ。それがもたらす強度というものがある。
それはつまり、何か地域に問題/課題があってそれをどうにかしたい!という問題解決型ではなく、問題提起をするスペキュラティヴ・デザインへと移行していることを意味する。
社会善を主題とするのではなく異なる価値を提起することに、地方の可能性の一端がある。
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改めて、電通の方々は面白いことを常に考え続けているんだなと実感。とても刺激的だったと同時に、自分のアイデア力の乏しさを痛感した。やりたいと思っていることが、既に高度に実装されていることの現実よ。
その中で一体自分をどのように位置づけていくか、何をやるのか考えていかないといけない。