ウミネコラム

「ウミネコアーキ」が、建築について日々感じていることやら読本のまとめやらを色々と書き連ねるところ。

【ブックレビュー】國分功一郎著『中動態の世界』

議論を明確にするために何ごとも二項対立関係に還元しがちな世の中ですが、その只中において中動態の存在を詳らかにする名著です。生きるのが大変だと思う人には一種のカウンセリングみたいになるかもしれません(出版も医学書院です)。

『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎

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國分功一郎著『中動態の世界』



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ふだん当たり前のように認識している能動―受動という関係性だが(特に英語を学習するときはこれがベースになるといっても過言ではない)、エミール・バンヴェニストによれば、

"かつて、能動態でも受動態でもない「中動態middle voice」なる態が存在していて、これが能動態と対立していたというのである。すなわち、もともと存在していたのは、能動態と受動態の区別ではなくて、能動態と中動態の区別だった"(p.34)

しかし、中動態という曖昧な、中庸な態は近代になるにつれて能動―受動という対立関係に取って代わられてしまった(この経緯は本書を参照されたい)。

一方で、能動―受動という関係性には不都合な点も多い。

"われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである"(p.258)

つまり、能動的に動くためにはその動機となる原因が程度の差こそあれ必ず存在するのであって、純然たる能動は存在しえない。この完全な能動を「意志」といい、著者はハイデッガーと同様に批判的な立場をとっている。
では、実際はどういう構造になっているのかというと、

"能動と受動はしたがって、二者択一としてではなくて、度合いをもつものとして考えられねばならない。われわれは純粋は能動になることはできないが、受動の部分を減らし、能動の部分を増やすことはできる"(p.258)

従って、この能動―受動がグラデーショナルに分布している状態こそ「中動態」と言える。

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これをどのように活用していくかというと、

"他人から罵詈雑言を浴びせられれば人は怒りに震える。しかし、スピノザの言う「思惟能力」、つまり考える力を、それに対応できるほどに高めていたならば、人は「なぜこの人物は私にこのような酷いことを言っているのだろうか?」「どうすればこのような災難を避けられるだろうか?」と考えることができるだろう。そのように考えている間、人は自らの内の受動の部分を限りなく少なくしているだろう"(p.260)

あるいは、

"他人の能力や実績を見て、ねたんでしまったときも、「どのようにして自分はこの人物をねたむに至ったのか?」と問いうるほどに思惟能力を高めていれば、ねたみに占領されてしまった変状に変化をもたらすことができるだろう"(p.260)

つまり、自分の置かれている立場を能動―受動とひと括りにして思考停止してしまうのではなく、他者の発言を宙吊りにし反芻することで、立場を変え得るということを意味する。

これは当たり前のようで極めて重要な話なのだが、

"同じ刺激を受けたとしても、個体ごとに変状の仕方は異なり、また同じ個体であっても時と場合によって別の仕方で変状しうるという事実は、われわれをして次のような能力を想定させる。すなわち、外部からの刺激に応じて変状をもたらす能力、言うなれば、<変状する能力>である。個体一つ一つがそのような能力をもつ。その能力は個体ごとに異なる。そしてこの能力は一つの個体のなかでも持続的に変化している"(p.253)

この、人それぞれ受け取り方は異なり、それは同一人物でも時と場合によって異なるという前提は、意外と認識されていないように思われる。
仮に、ある人間が相手のことに無配慮で自己中心的な思考の持ち主だった場合(往々にしてよくあることだが)、自己が中動の中で上手に揺れ動き、好転させるしかないのである。

従って、

"われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向する"(p.263)

のである。

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ここで言う自由とはいったい何なのか。

"スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば、自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するのか?その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。だからスピノザはやや強い言い方で、いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態から脱することができると述べた"(p.262)

つまり、より能動的に、自己が主体的に行動できることを、「自由」と定義している。

従って、「中動態」を乗りこなすことこそが、あえて青臭く言えば、人間らしく、自分らしく生きられる一つの方法なのではないか、と。

著者が引用する、カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』の冒頭の言葉が物語る。

「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである」

自分の歴史は自分の思いどおりにはならない。
だからこそ、その中で少しでも抵抗するための手段として、「中動態」の世界を生きていく必要がある。

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論理的に説明するための手段としての還元には、感情が伴っていないような気がします。
極めて男性的であり、抽象化を好む習性がある。
最近、その片手落ちな感じに物凄い違和感を覚える。
もっと曖昧な、半端なものを大らかに包み込めるような思考を持ちたいし、そのような建築/空間をつくりたいものです。