ウミネコラム

「ウミネコアーキ」が、建築について日々感じていることやら読本のまとめやらを色々と書き連ねるところ。

【ブックレビュー】アルド・ロッシ著『都市の建築』

最近、改めて建築の在り方について考えていて、思い至った一つの解答として<都市の建築>が適切なのではないかと考えた次第。
そこで同じワードを表題としてる40年ぐらい前の本、アルド・ロッシ著『都市の建築』を読んでみる。
※ちなみに、ここでいう<都市>とは国家―資本―都市という三権分立構造における都市であって、ものすごくざっくりいうと人間のための拠点です。

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『都市の建築』アルド・ロッシ著、大島哲蔵・福田晴虔訳

 

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アルド・ロッシ著『都市の建築』

最初に結論から言うと、自分の考えていた意味とは違って、ロッシのなかでは

“都市とは、本書が対象とするところのものは、ここでは一個の建築のようなものと了解されたい”(p.3)

というように、「建築としての都市」を標榜していたようで肩透かし感が否めないのですが、読み進めていくと、都市の理解の仕方や建築の位置づけが興味深い。

例えば、

“このように都市が沢山の、それ自体完結した部分からなるというのであれば、私のみるところ、これはまさに完璧に選択の自由を許容するものだということになる。そしてこの選択の自由ということこそ、それが提示するもののなかでも最も本質的な問題なのだ”
“市民の確固たる自由は、選択が自由である社会においては、そのどちらをも任意に選び取ることができるということのなかにあるということだ”(p.148)

というように、ジェイン・ジェイコブズよろしく、都市において重要な要素として「選択の自由」を掲げている。
どこもかしこも画一的な建物・デザイン・お店・人間・…ではなくて、異なる種類のものが同じ場所に存在していることの多様性は人間らしく生きるのには必要なこと。
近代の少種多量から、現代は多種少量の時代へ移行するべきで、そしてそれを許容する寛容性ある環境が求められる。

ここで留意点。
この本でロッシの言う「建築」の位置づけを明らかにしておくと、

“明らかなことだが、本書が取り組むのは都市の建築であって、直接的に建築そのものや総体として捉えた都市建築などの複合的問題を考察するとは言いながら、実は建築の固有の問題は全くとりあげることができない。私の言う固有の問題とは造形的問題のことだ”(p.184)

としている。つまり、都市の建築は建築単体の審美性について議論しない。もっと言えば、建築単体の造形に関する理論と<都市の建築>に関する理論は別レイヤーの話である、ということ。
ここがとても重要。
建築単体の話しかしない建築家は、「建築をつくること」が目的化する。
<都市の建築>について考えられる建築家は、建築はあくまで手段の一つであることを認識している。
それはなぜか。彼らは、

“都市は人間的な出来事の舞台なのだ”(p.414)

ということを理解しているからである。

それを踏まえて、次のフレーズの意味を考えたい。

“建築――la création humaine[人間の創造物]――の質とは、都市の意味なのだ”(p.155)

都市の意味は建築の質によって決まる、とするならば、どのような建築をつくるべきなのか。
トートロジーのようだが、やはりそれは<都市の建築>である、と言いたい。

締めくくりに代えて、この引用文を。

“さて都市建築は――周知のごとく、人間の創造物であるそれは――人間の望みに沿って造られたものである。ルネサンス・イタリアの都市広場の例は決して機能や偶然性に帰することは出来ないものなのだ。それらは都市形成のための一つの手段であったのだが、しかし、繰り返し言うことになるが、手段が目的になるようなことがある。だからそれらの広場は都市なのだ。かくて都市はそれ自身を目的とするのであり、都市がそれらの作品のなかに現存するという以上にそれを説明し得るものはないことになる。しかしこのような存在のし方には、あるかたちでありたいとし、あるかたちで存続したいとする意志が含まれている。”(p.270)

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建築の価値決定の手段はいくつかある、というのは共通認識としてあるところだと思いますが、有用な判断材料として、デイヴィッド・ハーヴェイが『コスモポリタニズム』で触れている絶対的空間・相対的空間・関係的空間みたいな評価軸があるなと。
<都市の建築>はあくまで関係的空間の一部の話をしているので、絶対的空間の議論は併存できるというのが僕の立場。
(絶対的空間っていうのは、この空間って気持ち良いよね!みたいな認識、意訳してます)
このあたりを今後整理したい。