ウミネコラム

「ウミネコアーキ」が、建築について日々感じていることやら読本のまとめやらを色々と書き連ねるところ。

都市的人間<ホモ・ウルベ>はサプライチェーンに飲み込まれる

最近よく考えている都市/集落とナリワイ、そこから見えてくる接続性/切断性について。

 

■ 新しいこと=古いこと?

『建築ジャーナル2018年2月号』の情報ポストにて、「「集落」という実験場、やいか」という記事を書かせていただいた。

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『建築ジャーナル2018年2月号』

 

詳しくは内容を拝読していただければと思うが、ざっくり言えば、集落では今なお当たり前のように行われている、例えば家を建てたり作物を育てたりするようなナリワイ(=生活と仕事を一体化させること)が、昨今の都市の人間には目新しく映り、それがスキルとして、延いては生存戦略として有効な手段の一つではないかということを示唆している。

ちなみに、このナリワイについては伊藤洋志著『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』を参照している。

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伊藤洋志著『ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方』

 

改めて、ここでいう<都市>と<集落>の定義を整理しておくと、<都市>とは「外部的に生存物資・技術を交換することで成立する拠点」を意味する。それに対して、<集落>とは「内部的に生存物資・技術の多くを自給自足的に完結させている拠点」を意味している。詳細は西沢大良著『新建築2012年5月号:現代都市のための9か条(連載 第二回)』を参照されたい。

つまり、集落では外部に依存できないがゆえに生活力を高める必要があり、自然にナリワイ的な生活が生まれる土壌があるということである。

 

ところで、『建築ジャーナル2018年2月号』の主題は「小さな家」で、タイニーハウスや小屋暮らし等の事例が紙面を飾る。もちろん、「小さな家」ということで最小限・ミニマルな家や暮らし方というのがあるだろうが、その背後で彼らが標榜することの一つに、「家」を自身でハンドリングしたいという意志があるように思う。高いお金を払って余所余所しく付き合うのではなく、自力で作り愛着を持って接することができる家。この潮流は90年代以降の欧米から来ているようだ。

一方で、元々日本の農家の人々は自力で建築するスキルをもっており(今でもビニールハウスなどは当たり前のように建てている)、広く生活する能力を培ってきた。

 

ここで松岡正剛、ドミニク・チェン著『謎床:思考が発酵する編集術』での言及を見てみよう。

翻ってみると、西洋の抱えている構造的な限界の先にあるアジア、あるいは日本という風土に僕たちはすでに生活している。その一方でIT業界でいえば、Googleが禅を取り入れたということが最先端の情報として入ってくる。あるいはマインドフルネスという語についてアメリカの医学界で用語定義され、よし今度はマインドフルネスを最大化するシステムをつくろうという話になっていて、日本はかえってそこに後れを取っている感じがあるんです。最初から身近にあるのに、欧米から流れてくることによって目新しく感じて取り入れようとしている。(p.153)

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松岡正剛、ドミニク・チェン著『謎床:思考が発酵する編集術』

 

つまり、西洋の構造的限界の先にアジアや日本の生活があることに気付いておらず、西洋の動向を逆照射する形で日本の生活に気付くようになる現状がある。それはタイニーハウスやDIY系の潮流についても同様のことが当てはまる傾向にある。もっと言えば、ミニマルな思想は鴨長明の『方丈記』や侘び寂びに通じるものがある。

 

どうやら元々あったものを目新しく取り入れるというアベコベな形になってはいないだろうか。集落の住民が当たり前のように行う<百姓的>(百姓とは、文字通り100の仕事を持つという意味)な生活の仕方が、現代では特別なことのように表現されていることに対して違和感がある。

 

 

 

■忘却する近代

しかしながら、恐らくこれは近代社会が意図的に忘却してきたことだと思われる。だから彼らが悪いというわけではないし、その行い自体は評価されるべきものである。

少なくとも近代以前の歴史的な事象が大事で、それを再考するタイミングが来ているのだと思う。特に日本では第二次世界大戦前後の転換は大きいと考えられる。

 

我々は想像以上に沢山のスキルを失っているのではないだろうか。

 

自力で賄うより外注した方が効率的・合理的であるという意思のもとに。

そういう価値意識はある側面では非常に妥当性がある一方で、例えば災害時・非常時などのように供給が断たれた場合に、自給できるものが殆ど残らなくなるという危険性を孕んでいる。これは生存戦略としては決して合理的ではない。

それはどういうことだろうか。前述の『ナリワイをつくる』では次のような興味深い話がある。

このように、世間で常識と思われているリスクヘッジは、一つ階層を上がれば全然リスクヘッジになっていなかったりする。結局、真のリスクヘッジとは、常日頃の行いでなされるものだと思う。ここまでいけば安心、というような地位はほとんどないわけで、そのようなものを期待しない方がむしろリスクがう少ない状態を保てるとも言える。(p.200-201)

 

つまり、個人レベルでの接続性と都市のインフラとしての接続性は大きく異なっている。なるべく多数の供給網を接続するというのは、リテラルな都市では非常に重要な戦略である。たとえば、パラグ・カンナ著『「接続性」の地政学(上):グローバリズムの先にある世界』で述べられているように、

二一世紀に人間の生活の基本となるのは主権国家や国境線ではなく、サプライチェーンと接続性だろう。(p.49)

従来、戦略的重要性は領土の広さと軍事力で測られてきたが、今日の力の大きさは接続性の範囲においてどれだけの影響をおよぼせるかに左右される。国家の重要度を決定する最大の要因は位置や人口ではなく、資源、資本、データ、有能な人材といった貴重な資産の流れとの物理的、経済的およびデジタルなつながりだ。  (p.79)

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パラグ・カンナ著『「接続性」の地政学(上):グローバリズムの先にある世界』

 

実際の都市においては、かつてなく接続性が優位性を示していると言えよう。一方で、その都市の住民においては、それをそのまま敷衍して説明することは出来ないと考えるのが妥当のように思う。

 

 

■都市化する人間<ホモ・ウルベ homo urbe>たち

自己の能力の外部化を促進することは、自己をサプライチェーンのターミナルに置くことであり、延いては<自己の都市化>を推し進めることへ繋がる。

この<都市化する人間>を仮に<ホモ・ウルベ homo urbe>(=都市的人間)と名付けてみよう。

 

それはつまり、できるかぎり生存物資・技術を外部と交換することで成立する人間である。出来ないこと、自分で行う必要がないことはなるべく外へ出していく、そしてそこで生まれた余剰の時間を有効活用する。その人の接続性が価値となる世界。

 その対極にあるのが、<自己の集落化>と言える。それはつまり、できるかぎり自力で生存物資・技術を自給自足的に完結する人間である。なんでもできる生活力の高い人間と言えよう。

 この自己の都市化/集落化は、自己の接続性/切断性とも換言できる。

 

さて、現代はかつてないほどにこの<ホモ・ウルベ>に溢れているのではないだろうか。

自己を外部と接続することで生存活動を維持する人間。

例えばコンビニで食事を買ったり、ファストファッションブランドの服を買ったり、カフェでコーヒーを飲んだり……これらはサプライチェーンと接続性なしには成立しない。都市の人間は都市に溶融してしまった。

 

この流れは現代を包み込んでいる新自由主義経済が終焉を迎えるまで止まることはないだろう。

重要なのは、どこで生存戦略を思考するか、である。

 

 

■有限性の彼方へ

<ホモ・ウルベ>にとって想定される致命的な問題点の一つとして、「接続しないといけない」と「錯覚」していることが挙げられる。

接続性とは需要と供給によって成立するものであり、そのバランスが肝要である。大型船から輸入するためには巨大な港が必要なのと同じように、多大な接続性を受け入れるにはそれ相応のスペックが問われる。

 

<ホモ・ウルベ>にとって、接続性は無限大である。

しかし、人間のキャパシティは限られている。モノもコトも溢れるこの世界の中で、過剰接続となるのは不可避である。

「小さな家」のミニマリストたちは、この接続過剰から逃れたかったのかもしれない。

 

恐らく<ホモ・ウルベ>の多くを支えるのは金銭的資本であるが、決して反資本主義を標榜しているわけではない。現代に生きるうえで接続することのメリットは計り知れないし、時代退行は避けられるべきである。

 

重要なのは「接続をいかに切断するか」である。

 

そのための極めて重要な考え方として、千葉雅也著『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』の中の次の文章を提示したい。

もっと動けばもっと良くなると、ひとはしばしば思いがちである。ひとは動きすぎになり、多くのことに関係しすぎて身動きがとれなくなる。創造的になるには、「すぎない」程に動くのでなければならない。動きすぎの手前に留まること。そのためには、自分が他者から部分的に切り離されてしまうに任せるのである。自分の有限性のゆえに、様々に偶々のタイミングで。(p.52)

無限な接続過剰から、部分的な無関係へ、すなわち、有限な接続と切断へ。(p.231)

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千葉雅也著『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』

都市においては、繋がることが至上命題とされているが、<ホモ・ウルベ>にとってそれは諸刃の剣ともなる。

それを超克するためには、部分的に切断すること、<集落化>することが重要なのではないだろうか。

 

なぜならば、東浩紀著『ゲンロン0:観光客の哲学』で著者が述べるように、

人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。言い換えれば、公共性などだれももちたくないのだが、にもかかわらず公共性をもつ。ぼくには、この逆説は、すべての人類学の根底にあるべき、決定的に重要な認識のように思われる(p.64)

 なのだろうから。

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東浩紀著『ゲンロン0:観光客の哲学』

 

そもそも都市とは違って、人間は必要性に駆られて関係性を築くのであって、根底では関係したくないのではないか。接続過剰に対する疲弊の背景には、この認識があるように思われる。

<ホモ・ウルベ>は生存戦略の一環として<集落化>するために過去の事象を追ってみるのも悪くはないだろう。

それは決して<都市化>と乖離するものではなく、自己の中で<都市>と<集落>は共存するのである。自己における<都市>と<集落>のハイブリッド化。

 

接続性の有限化が、選択肢を無限遠へ投擲してくれるに違いない。